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イエナ橋
Pont d'Iéna
イエナ橋
は、極めて数奇な運命を辿った橋。1806年のイエナの戦いでプロイセンに勝利したナポレオンが、1807年に陸軍士官学校(École militaire)から見下ろせる橋の建設を命じたのがスタート。彼は、完成した橋に、プロイセンに勝利した記念に「皇帝の鷲」を刻むことが夢だった。橋は1808に着工、1814年に完成したが、彼が退位させられたのは1814年の4月4日。どこを見ても、何月に完成したか書いてないが、完成した時点で「皇帝の鷲」が橋脚の上に付いていたことは確か。ナポレオンは、1815年にエルバ島を脱出し、パリに戻って復位し「百日天下」の末、セントヘレナに幽閉された。ルイ18世は、イエナ橋を陸軍士官学校橋と改名し、「皇帝の鷲」を取り除き、代わりに、ルイ(Louis)の “L” の字を付けた。1852年にナポレオン3世が第二帝政の王位に就くと、橋の名はイエナ橋に戻り、新しい「皇帝の鷲」がジャン・フランソワ・ムレ(Jean-François Mouret)によって作られ、再び橋を飾る。その後、1900年のパリ万博の期間中、イエナ橋は、エッフェル塔の真正面にあることから、博覧会の中核的な橋となり、両脇に金属製の歩道橋が追加され、橋の幅は14mから19mになった(1枚目の絵葉書参照)。さらに、1937年のパリ万博では、コンコルド橋のように、橋の両側から石橋脚が付け加えられ、橋の幅は35.8mになった(2枚目の写真)。3枚目の図は、グーグル・マップで、橋の周辺の状況を示したもの。陸軍士官学校は橋からちょうど1km離れている。1枚目の絵葉書は、1887年に出来たエッフェル塔側から、橋の向こうのトロカデロ会場を撮ったもので、イエナ橋が如何に重要な場所にあったかが良く分かる。2枚目の絵葉書では、シャイヨー宮が右端に写っているが、宮殿は1937年のパリ万博の中心パビリオンだった。イエナ橋は 常に万博と一緒にいる。
1枚目の写真は、少し離れた場所からイエナ橋を撮ったもの。コンコルド橋と同じ、ペロネ式の「半円アーチの上部だけを切り取った扁平なアーチ」が使われていて、ライズ比(高さ/スパン)は約0.12と、コンコルドの0.13より一段と扁平になっているが、橋脚の幅はスパンの約1/8で、コンコルドの1/10.6に負けている。2枚目の写真は、エッフェル塔の下部を入れて、近くから橋を撮ったもの。拡幅部分が、独立した橋脚になっていることが分かる。3枚目の写真は、ナポレオンがこだわった「皇帝の鷲」の彫刻。なお、ユネスコの世界遺産「パリのセーヌ河岸」について、ユネスコのサイトには、「サン・ルイ島の東端にかかるシュリー橋から、左岸にエッフェル塔をのぞむイエナ橋までが、世界遺産に登録されている」と書かれている。しかし、個別の橋を見ると、アレクサンドル3世橋、コンコルド橋、ポン・デ・ザール、ポン=ヌフの名前はあがっていても、イエナ橋そのものが世界遺産だと明確に書いた資料を見つけることができなかった。そこで、上のユエスコの文章は、単に「パリのセーヌ河岸」の範囲を示すもので、その中に入るすべてが遺産になる訳ではないので、イエナ橋は除外して表示する。間違っていると分かった段階で表示を改める。