ページの先頭へ

■国別のリストに戻る     ■フランス 「パリ」のリストに戻る

 アンヴァリッド橋  Pont des Invalides 

アンヴァリッド橋は、アンヴァリッド広場(Esplanade des Invalides)に近いことから付けられた名前。ただし、アンヴァリッド広場の真正面にはアレクサンドル3世橋が架かっているのに、なぜそんな紛らわしい名前にしたのか? その理由は、1821年に遡る。技術者・数学者だったクロード・ルイ・マリー・アンリ・ナビエ(Claude Louis Marie Henri Navier、有名なナビエ–ストークス方程式の発見者の一人)は、現在のアレクサンドル3世橋の場所に革新的な橋を架けようと、吊橋の設計を開始した。1821年と言えば、吊橋の黎明期。アメリカではいち早く発明家のジェイムズ・フィンリー(James Finley)が1801年にジェイコブス・クリーク橋(Jacob's Creek Bridge、鉄チェーン吊橋、長さ21m、1825年に損傷して木橋に変更)を架けた(1枚目の図)。イギリスでは、サミュエル・ブラウン(Samuel Brown)海軍大佐が、1820年にユニオン橋(Union Bridge、錬鉄チェーン吊橋、長さ137m、現役)を架けた(2枚目の写真)。スイスでは、軍人・橋梁技術者のギョーム・アンリ・デュフール(Guillaume Henri Dufour)が、1823年にサン=アントワーヌ橋(Pont de Saint-Antoine、ワイヤーロープ吊橋、長さ42m×2、1860年要塞の解体時に破壊、3枚目の絵)を架けた。フランスでは、「フランスの橋」のところで書いたように、マルク・スガン(Marc Seguin)が、1825年にトゥルノン(Tournon)に長さ85m×2のワイヤーケーブル吊橋を架けた(4枚目の写真〔以前とは違う古写真〕)。
 
 
 
 

こうした流れを見ると、ナビエが1824~26年にかけて建設を進めたアンヴァリッド吊橋(長さ155m)は、危険な賭けとしか言いようがない(5枚目の上の古図)。実際、完成する前の1826年7月にケーブルのアンカーに亀裂が生じ、9月には主塔が傾き、翌年橋は解体された。吊橋の塔は、アンヴァリッド(退役軍人のための老人ホームおよび病院)に相応しくないという苦情を受けて、市は再架橋場所を少し下流に移し、ラレ・ダンタン橋(Pont de l'Allée d'Antin)と名を変え、3スパンの吊橋を、マルク・セガンの競争相手だった技術者のマリー・フォルチュネ・ドュ・ヴェルジェ(Marie Fortuné de Vergès)らに作らせた(5枚目の下の古図)。橋は1829年に完成したが、弱体化が進行し、1850年には通行が規制され、1854年に解体。1855年のパリ万博のために大急ぎで長さ152m、4スパン(すべて長さが異なる)の石アーチ橋(高欄は鋳鉄)が、アンヴァリッド橋の名で架けられた。橋は、その後、1880年1月のセーヌ川の洪水で2スパンのアーチ(橋の半分)が倒壊したが、年末までに再建された。再建を担当した 初代のアルマ橋の2人の設計者は、橋の下流側と上流側に、「海軍の勝利」と「陸軍の勝利」の女性像を設置した。6枚目の写真は、再建以後、現在まで無事のアンヴァリッド橋。7枚目の2枚の写真は、「海軍の勝利」(左)と「陸軍の勝利」(右)の像(2体とも、そんな風には見えないが…)。