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コンコルド橋 Pont de la Concorde
【世界遺産】コンコルド橋(1788~91年)は、18世紀後半のフランスで石アーチ橋の設計概念に革命的な変化をもたらしたジャン=ロドルフ・ペロネ(Jean-Rodolphe Perronet、1708~94年)の代表作。ペロネは、橋梁道路学校(École des ponts et chaussées)の創設者であり初代校長で、橋梁技術(美術を含む)を教える場を作っただけでなく、自ら10以上の橋を架けた。その中で、①パリの中心という場所と、②5スパンで全長155mという規模、③第一次世界大戦で爆発されたサントゥ=マグザンス橋(Pont-Sainte-Maxence、1774~85年、1枚目の写真)に次いで扁平なアーチという点で、コンコルド橋はペロネの最高傑作と言える。

因みに、ペロネのアーチ橋は、半円アーチの上部だけを切り取った扁平なアーチで、ライズ比(高さ/スパン)が、半円なら0.5であるのに対し、サントゥ=マグザンス橋では僅か0.09、コンコルド橋は0.13と、石を並べて作るだけの構造なのに非常に扁平なのが最大の特徴(2019年の日経の記事で、長野県にできた1スパンだけの鋼鉄アーチのライズ比が0.09で日本一扁平と書いてあった)。そして、それまでの橋なら、橋脚の幅はスパンの1/5にするのが通例だったが、コンコルド橋では、最大スパン31mに対し、橋脚の幅は2.9mと、1/10になっている。これは、アーチが扁平なことと相まって、豪雨時の河川の増水の際に橋が流される危険性(九州の石アーチは半円なので、度々流失や破損を被ってきた)を下げる効果がある。どうして、このような構造が可能になったのか? それは、それまでの多連のアーチ橋の設計が、多連でありながら個々のアーチだけで自立するように作られてきた(アーチを崩壊させないように支える「強い推力」を個々の橋脚だけで支持してきた)方式を止め、橋脚には単純に自重だけを受け持たせ、「強い推力」は隣り合ったアーチと橋脚を通して「両岸の橋台」で受け持たせればいい、という発想から生まれたもの。しかし、そのためには、施工中、まだアーチが連続していない段階で、アーチが壊れないようにしなくてはならず、そのためには、次のような手順が採用された(下の図参照)。

まず、
❶鉄で補強した木杭で川の中に四角い囲いを作り、
❷中の水を汲み出しながら、橋脚の下に杭を密に打ち(ここまで左の図)、
❸その上にシルトと砂を敷いて平らにしてから、
❹石材を立ち上げる(右の図)。橋脚が完成すると、その上に木で作った「石のアーチを支える台」(下の図)を、コンコルド橋ではアーチが5つあるので橋脚の上に5個並べ、5個すべての両端から中央に向かって、アーチの推力を伝える「迫石(非常に縦長)」を並べていく。

そして、「迫石」を、中央の「楔石」を除いて並び終えると、5つあるアーチの頂点の空隙に、5ヶ所同時に「楔石」を挿入する。すると、バラバラだった5つのアーチは一つの連続アーチとして強い力を持った構造物に変身する。あとは、アーチの隅の隙間を壁石で塞ぎ、橋の上部を水平にすれば工事は完了する。ここで、もう一度、コンコルド橋そのものに話を戻そう。コンコルド橋が着工された翌年には、フランス革命が起きたので、橋の建設には革命で破壊されたバスティーユ要塞の石が使用された(こうした残虐な行為を二度と起こさないという戒めのため)。18 世紀末には新古典主義が流行していたので、ペロネは作品に列柱のような外観を与えたいと考え、橋脚の先端を半円柱にし、アーチの部分と連続するようにコーニス(帯状の石)を置き、その上にデンティル(歯状装飾)付きの高欄を乗せた。なお、最初にペロネが作った時は、橋の幅は14mで十分だったが、車時代に入り、それでは狭すぎたので、1930年に技術者のデヴァル とマレによって幅30mに拡幅された。その時の方法は、橋の両側の装飾的な高欄~橋脚を取り外し、橋の両側に新たな橋脚を作り、その上にもう一度装飾的な高欄~橋脚を再設置するという手法が取られた。1枚目の写真は、コンコルド広場を入れたコンコルド橋。2枚目の写真は、できるだけ扁平なアーチを感じさせるように離れて撮ったもの。2枚目の写真の橋の下を見ると、1930年に各幅した時に両側に追加された橋脚がよく見える(追加部分の橋脚は、ペロネの橋脚と離して設けられたので、短、長、短と3つ見える)。私は正面からの写真が欲しかったが、セーヌ川を船で観光したことはないので、パリの橋の専門サイトにあった正面からの写真(扁平なことが良く分かる)を3枚目に掲載する。