【世界遺産】カオール(Cahors)は、ロット(Lot)川にU字型に囲まれている町。1879年にヴァラントレ橋を修復した建築家グー( M. Paul Gout)の報告書(1880年)によれば、「最初の橋はアウグストゥス帝の治世(BC63~AD14)に、トロサテス(トロサ人)の首都(現トゥールーズ)に至るローマ街道の一環としてカオールの南側に作られた。2つ目のポン=ヌフ橋は、1251年に着工、1283年にカオールの東側に完成した。町の西側に新しい橋を作るべく最初の石がサバナック(G. de Sabannac)領事の手で据えられたのは1308年(ポン=ヌフ橋ができてから僅か25年後)だった。ポン=ヌフ橋の橋脚は三角に尖った形態で、両方の橋の上には塔が建てられ、町の要塞に接続されていた」と書かれているので、カオールは防衛強化に熱心な町だった。しかし、着工はしても、資金が不足していたため1313 年まで工事は中断。その後も資金不足で中断が続くうちに、1337年から仏英戦争が始まり、1364 年にかけて、イングランド王エドワード3 世が攻勢に出て、次々とフランスの領土を奪っていく【こう書くと、如何にもエドワード3世が悪いように思えるが、彼はプランタジネット朝の国王。そして、プランタジネット朝の元になったのは、1054年にノルマンディー公ウィリアム2世がフランス王との戦いに勝ってノルマンディー公国の国王となり、1066年のヘイスティングズの戦いでイングランドの王位を勝ち取り、イングランドとノルマンディーの支配者となったウィリアム征服王の存在。このノルマンディー家が3代で終わると(男子の跡継ぎがいない)、紛争が起き、結局、フランスの西半分を支配していたアンジュー伯がイングランド国王ヘンリー2世となる(1154年、プランタジネット家)。その後、13世紀の初頭にフランス王フィリップ2世が反転攻勢に出て、アンジュー公国の領土を奪取し(奪還ではない)、それを取り戻そうとしたのがエドワード3世】。カオールにも、1345年、イングランドの分遣隊が攻撃を仕掛ける。カオールは町の要塞を強化して防衛に専念したが、1348年からは疫病が相次いで発生。このような状況では、新橋の建設などにかまけてはおれない。フランスが反転攻勢に転じるのは1364 年から 1380 年にかけて。1369年には、モントーバンから追い出されたイングランド軍がカオールを包囲するが、万全の守備で撤退。こうした戦乱の世を経てヴァラントレ橋が完成したのは1378年。こうした時代によくできたものだと思うが、後世の人はそのあまりの遅さに、悪魔伝説をでっち上げ、今ではどのサイトを見てもそのことしか取り上げていない。ヴァラントレ橋は、カルカソンヌが中世の城塞都市を代表するように、中世の要塞橋のNo.1の地位を獲得しただけの完全無欠さに溢れている。石橋(全長138m)自体は、典型的な中世の尖頭アーチが6つ(スパン16.5m)が並び、ポン=ヌフ橋と同じ三角に尖った橋脚を持っているが、魅力はそこにあるのではなく、高さ40mの城砦塔が3つ、両端と中央に立っている姿。戦闘目的のため、橋の東端にある門や三角の橋脚の上は凸凹の胸壁が付けられ、門には狭間(弓矢を撃つ)が設けられている。塔の最上部の見張り台には、下部に “出し狭間”(岩石や熱湯、熱した油等を敵に投げ落とす)が付き、その上には狭間、落とし格子の窓も付いている。最後に、誰もあまり気付かないが、橋の下流には堰が設けられていて、橋の前後が池のようになり、洪水の急流に遭わないよう工夫されている。1枚目の写真は上流側から撮った全景。2枚目の写真は下流側から撮った逆光の全景。橋を守る堰が良く分かる。3枚目の写真は西端の塔と2つの三角橋脚を強調したもの、4枚目の写真は、東端の門から東側の塔を撮ったもの。