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 スワソン               Soissons
 サン=ジェルヴェ=エ=サン=プロテ大聖堂 Cathédrale St-Gervais et St-Protais
 サン=ジャン=デ=ヴィーニュ旧修道院  Ancien Abbaye de St-Jean-des-Vignes 

スワソンには2つ教会がある。1つはサン=ジェルヴェ=エ=サン=プロテ大聖堂、もう1つは、サン=ジャン=デ=ヴィーニュ旧修道院。大聖堂は1176 年から建設を始め、完成までに3世紀を要し、1479年にスワソン司教ジャン・ミレ(Jean Milet)が奉献した。1つしかない塔の高さは66m。修道院の教会は、1215~30年のわずか15年で身廊、翼廊、内陣が完成するが、奉献は、1478年になってから(同じ司教ジャン・ミレ)。この修道院の教会、ファサードの2つある塔のうち、1488~95年に出来た大塔は高さ80m、1516~20年に出来た小塔は高さ70m。ファサードの立派さは、大聖堂より修道院の教会の方がよほど立派だ。この2つの教会は、1567~68年にユグノー軍がスワソンを占領した際、損傷を受ける。また、フランス革命の間、大聖堂は2回閉鎖(1回目1793年、2回目1796年)され、1799年に再開し、受けた損傷を、ジャン=クロード・ルブラン・ド・ボーリュー(Jean-Claude Leblanc de Beaulieu)司教が修復を指示する。修道院では、修道士72人が追い出され、家具が売却される。この記述からは、大した損傷は受けていないように思われるが、1809年、大聖堂を快く修復した司教が、今度は、修道院の改修費用が高すぎるという理由で、ソワソン市や数人の政治家からの強い抗議にもかかわらず、ファサードと2つの塔を除き、教会を破壊するよう命じた。石工が修道院を買い、身廊を解体して石を売った。どうして、2つの教会で正反対の決断が、同じ司教によって下されたのか? 恐らく、大聖堂は司教の直接の管轄下にあるので大事にするが、「自分に関係のない修道院なんかに教区の大事なお金なんかやるか」という思いがあったに違いない。この司教は、ナポレオンをフランスの皇帝とは認めず、1815年にロンドンに亡命したような人物なので、こうした差別的な行為を平気でやったのであろう。ただ、現在の資料もズルい。それは、ジャン=クロード・ルブラン・ド・ボーリューの経歴を見ても、大聖堂の修復については触れていても、修道院の教会解体については口を閉ざしている。執筆したキリスト教の関係者も、恥を隠そうと思ったに違いない。下の2枚の写真は、その履歴を調べたら、もうどうでもよくなった大聖堂。1枚目は、鐘楼は1基しかなく、内陣側からの外観も、どこにでもあるゴシック様式の教会。2枚目の身廊も、もう見飽きてしまった、どこにでもある、ステンドグラスの多くを欠いた魅力なき光景。
 
 


こちらは、1枚しかないが、同情に値するサン=ジャン=デ=ヴィーニュ旧修道院の教会。塔は大聖堂と違って2塔あり、2塔とも大聖堂の塔より高くて立派だ。ファサード正面のバラ窓は、プロイセン軍の爆撃で破壊され(1870年)、大きな丸い穴になっている。そして、その向こうには身廊がないので、残っているのはファサードだけ。でも、私は、どこにでもある平凡な大聖堂より、見たことのない異形の、とても可哀想な修道院教会の方が100倍好きだ。