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ピエールフォン城
Château de Pierrefonds
ピエールフォン城
は、1396年にオルレアン公爵が建設に着手したのが、その起源。完成した年は不明だが、1411年に敵対するブルゴーニュ公爵の支持者が城を占領したので、その時点では完成していたのであろう。その後、城は持ち主を何度も変え、最後は、1617年、ルイ13世によって城の破壊が命じられる。19世紀に入ると、中世のロマンチックな廃墟として知られるようになり、当時の有名な画家カミーユ・コローも描いている。そして、1850年に廃墟を訪れたナポレオンの甥ルイ・ナポレオン・ボナパルトは、ナポレオン3世になると、最高の修復建築家として名を馳せたヴィオレ=ル=デュック(Viollet-le-Duc、カルカソンヌの修復が最も有名)にピエールフォン城の修復を命じる。当時の修復は、現代の文化財の修復と違い、元の姿に戻すことではなかった。ヴィオレ=ル=デュックによれば、修復とは、「ある時点では決して存在しなかったかもしれない完全な状態に復元すること」だった。だから、カルカソンヌでも、スレート葺きの円錐形の屋根を多くの塔に建て、今ではそれが魅力になっているが、後世の専門家から強い批判を浴びた。ヴィオレ=ル=デュックは、ピエールフォン城でも同じようなことを行った。一番目立つのが、8基ある塔のうち、最も大きな2つの塔、セザール(César、ジュリアス・シーザー)とシャルルマーニュ(Charlemagne、カール大帝)の塔の上にも円錐型の屋根を載せ、その背後に、もう一段高い、砦のような細い塔を建てたこと(他の6基の塔にも)。
1枚目の写真は、西側から撮ったもので、左から、ゴドフロワ・ド・ブイヨン(エルサレム王国の初代君主)、アレキサンダー大王、アーサー王の塔。2枚目の写真は、ほぼ同じ角度から1855年に撮られた写真。批判はあっても、よくここまで復元できたものだ。3枚目の写真は、最も大きな2つの塔と、その塔の間に設けられた高い城壁を撮ったもの。4枚目は、図の上に長々と書いた資料にある図-13の転載。この城の絵は、1611 年にDuviertが描いた破壊される前のピエールフォン城(青い点線は、最も大きな2つの塔)。赤い長方形は資料の著者が描いたもので、そこに浅浮彫りの飾りがあることを示している。これを見た後で、3枚目の写真を見ると、同じ場所に浅浮彫りの飾りがちゃんと再現されている。5枚目の写真は、城の中の有名な中庭。ここで多くの映画が撮影されたとか。