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シャンティイ城
Château de Chantilly
シャンティイ城
は複雑な経緯を辿る。11世紀起源の要塞に変化の一歩が訪れたのは1386年、シャルル5世の元宰相ピエール・ドルジュモン(Pierre d'Orgemont)が新しい要塞の建設を始めたのが契機。1484年、要塞は甥のギヨーム・ド・モンモランシーに遺贈された。ここで、フェール=アン=タルドゥノワ城で名が出て来たモンモランシー家が登場する。アンヌ・ド・モンモランシー(Anne de Montmorency)は、初代公爵となった1551年に、フェール=アン=タルドノワ城の橋を作った建築家ジャン・ビュラン(Jean Bullant)に、古い要塞の脇にプティ・シャトー(Petit Château)を作らせる。そして、第4代モンモランシー公爵のアンリ2世・ド・モンモランシーがリシュリュー(ルイ13世の宰相)によって処刑されると、シャンティイ城も没収される(1632年)。そして1643年にモンモランシー公位を継承したコンデ公妃シャルロット=マルグリットに城が返還されると、城はコンデ家の所有となる。「大コンデ」として知られるブルボン=コンデ公ルイ2世(Louis II de Bourbon-Condé)は、稀代の造園家アンドレ・ル・ノートルに庭園の設計を依頼。ル・ノートルは1662~84年にかけて、ヴェルサイユ宮殿に勝るとも劣らない大庭園を作り上げた。その後、後を継いだ子孫が18世紀にグラン・シャトー(Grand château)、アンギャン城(Château d'Enghien)、大厩舎(Grandes écuries)などを作るが、フランス革命(1789~95年)が起きると、グラン・シャトーは建設資材にするため解体される。革命を終わらせたナポレオンがコンデ公の最後の後継者を銃殺すると(1804年)、オーマール公アンリ・ドルレアン(Henri d'Orléans, duc d'Aumale、1822~97年)が後継者に選ばれた。父、ルイ・フィリップ1世の七月王政(1830~48年)が崩壊すると、息子のオーマール公爵はイギリスに亡命。1875年に戻ってくると、グラン・シャトーの再建を建築家オノレ・ドーメ(Honoré Daumet)に依頼する(1876~82年)。だから、今のシャンティイ城は、この時に作られたもの。相続人がいなかったオーマール公爵が、1884年、全財産をフランス学士院に遺贈する。そして、1898年4月17日、シャンティイ城はコンデ美術館(Musée Condé)として一般公開された。
まず最初に、Google map(航空写真)を掲載する。赤い線は、アンドレ・ル・ノートルのアクス。東西のカナルは途中で折れているが全長2.6km、城の脇を通る南北のアクスは全長2.0km。一番大きな赤丸はグラン・シャトー、右側の赤丸はアンギャン城、左に離れた赤丸は大厩舎。
全体の構成を理解した上で、1枚目の写真はグラン・シャトーの入口。2枚目の写真はグラン・シャトーの南西側。3枚目の写真は私が一番好きな北西側。ともに、一種の水城だ。4枚目の写真は、シャンティイに招いた客人が泊まるアンギャン城。5枚目の写真は大厩舎。6枚目の写真は、グラン・シャトーの右のアクスのテラスから、その下の円形の池と、その向こうの入り込んだカナルと花壇の一部(右側)、そして、カナルの向こうの焦点の彫像を撮ったもの。写真は少し斜めからなので、その先に伸びるアクスは見えない。