ページの先頭へ

■国別のリストに戻る     ■フランス 「城と教会」のリストに戻る

 城塞都市カルカソンヌ  Cité Médiévale de Carcassonne 

【世界遺産】モン=サン=ミシェルに次ぐフランスの観光地、城塞都市カルカソンヌ。「Il ne faut pas mourir sans avoir vu Carcassonne(カルカソンヌを見ずに死んではならない)」という言葉がある。これは、ギュスターヴ・ナドー(Gustave Nadaud)が19世紀後半に書いた詩の中の、「Mon Dieu! Que je mourrais content. Après avoir vu Carcassonne!(ああ、神よ! 私は幸せに死ねるだろう。カルカソンヌを見たから!)」という文がその原点になっている。カルカソンヌに伯爵城(Château Comtal)が築かれたのは1130年頃(1067年にバルセロナ伯爵が、城壁で囲まれたカルカソンヌ要塞の持ち主だった伯爵ロジャー3世の子孫から買い取った)。12世紀末にカルカソンヌに来たカタリ派(ローマカトリック教会に反対する一派)を、城主トレンカヴェル子爵が保護するが、教皇により異端と宣言され、十字軍に包囲されて陥落。1224年にフランス王領となり、伯爵城はラングドックの2人のセネシャル(sénéchal、代官)のうちの1人の居城となった。カルカソンヌは、その後、南仏の軍事拠点となり、1240~50年の間に城壁が二重に補強され、52基もの尖塔が建てられた。19世紀になり、これまで何度も登場した修復専門家のヴィオレ=ル=デュック(Viollet-le-Duc)が復元を始め、彼が途中で死去すると弟子が後を継いだ。ヴィオレ=ル=デュックの、「中世を再現する」修復法、特に、52基の塔の上に円錐形のスレート屋根を付けたことに対する反発は大きかった。しかし、1462年に描かれたカルカソンヌの城と町の絵の中で(1枚目の古い絵)、絵の左上のカルカソンヌは、現在と同じように尖塔のある城壁で囲まれている。だから、ヴィオレ=ル=デュックの失敗は、南仏らしい赤のテラコッタタイル(土を焼いて作る)を使わず、北仏のスレートタイル(灰色の薄い石材)を使ってしまったこと。
 

下の最初の航空写真(Wikipedia)は、カルカソンヌの全景を見るためと、撮影箇所を示すために付けた。その下の1枚目の写真は、←の方向に撮った伯爵城。2枚目の写真は、セネシャル門(Porte du Sénéchal)への通路を入れて、城を撮ったもの(←)。3枚目の写真は、セネシャル門自体を撮ったもの(→)。4枚目の写真は、の位置から反対側の高い城壁を撮ったもの(→)。5枚目の写真は、城壁の反対のナルボンヌ門(Porte Narbonnaise)の南から、二重の城壁を撮ったもの(←)。写真で、赤い南仏風の屋根が2つ並んでいるのがナルボンヌ門。ここで面白い古写真を6枚目に添付する。この古写真で、右上の文字の下に写っているのがナルボンヌ門。そして、その左に2つ塔が並んでいるが、それは、5枚目の写真の赤い塔の左にある3つの塔のうちの2つ。つまり、6枚目の古写真は、5枚目の写真とほぼ同じ位置から撮られたことが分かる。しかし、両者は何と違うことか。かつては、二重の城壁の間が住民の家で埋まっていた。ヴィオレ=ル=デュックが、二重の城壁の間にあった家をすべて撤去したことで、住民には可哀想だったが、現在の「城塞都市らしい」風景が再現された。7枚目の写真は、サン=ナゼール大聖堂(Basilique Saint-Nazaire、11世紀、)の内部の1269~1330年に作られたステンドグラス。最後の7枚目の写真は、ライトアップされた素敵なカルカソンヌ。